前々回の記事、えらい湿っぽいこと書いた。
で、ダビンからは結局、幾日かあとに返事があって、国交が回復した感じなので、10月31日の今はもう湿っぽい気分はない。平熱の感じだ。
今、ダビンは韓国に一時帰国しててしばらく顔見てないけど、またアメリカで会える。楽しみだなと思う。
それで、ほとぼりが冷めたあとに書くのもなんだけど、やっぱり私は、誰かとこういうこと(ケンカやいざこざ、不仲の諸々)が起きるのをすごく避けたいわけでもないんだと思う。しょうがない。大事にしたい、近づきたい人間関係ほど、そうだ。はやおとも何度あったか。
自分なりに全力でやっちゃって、だってそうしたい相手だから。相手にとってはそれがいいのかわるいのか、最初からはわからんね。無難なことだけ言いたいわけじゃなくて、その人との間で、私はこうしたい、ってことがやりたくて、その結果起こったことを引き受けてやっていく。そういう意味での「起きることをやる」。時々めっちゃ痛いこともあるけど、仕方ない。
ダビンとの話だと、もう連絡は来ないかもしれんなあと思ったとき、じゃ今は自分のことをするしかないなと思った。英語とか、何か文章書いたりとか。大してできた気はしないが、それでも今は、一人でいる時間なんだろうと思った。
友だちとの関係が終わるかもしれんな、と思うのって、しかし痛いな。公園でため息つきまくって、秋の心地よい風が考えごとをはかどらせてくれちゃったりして、いっそすごい暑ければこんなこと考えなくて済んだのに、ってくらい恨めしかったけど。まあ、どうにかなるわって覚めてる自分も確かにいた。
しょんぼりしたまま、洗濯機をまわして、慧一郎をトイレにつれてって、にんじん刻んでれば。全く自分で狙えないのが厄介だが、ぜったいに、何かしら起こることを私は知っている。
自分の預かり知らぬところで、ぜったいに、勝手に何かしらが起こる。それは、自分がなんか大丈夫になるような出来事だ。ダビンから連絡が来ることかもしれないし(きたね)、全く関係ない、違う種類のことかもしれない。
だから、その時までとりあえず生活することが大事だ。しょんぼりしたまま、洗濯機まわせ!って話なのだ。
10月の月末。もう今は、大丈夫になってしまった。だから10月前半に、晴天の昼ひなか、アメリカきて今がいちばん辛いかもと思いながら公園で遊ぶ慧一郎を眺めていたのも、今はいい思い出になってしまった。






























